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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [8]




 彼女には、嘘が無い。
「いつになったら帰れるんだ?」
 食事を済ませ、窓から月を眺めながら早苗は訊ねた。細い月が西の空に浮いている。沈むのは時間の問題。そんな景色へと視線を向けながら、両手でオレンジジュースの入ったガラスのコップを包んでいる。ベッドに起こす半身は華奢で、着飾ればそこらのご婦人にも負けないくらいの淑女風情にはなれるのかもしれない。そう思わせてくれそうな女らしさが、なんとなく漂っている。
「医者は一週間は安静にしていろと言っていた」
「そんなには待てない」
「待てるか待てないかなんてのは問題じゃないだろ。熱が下がらなければ無理だ」
「熱など下がった」
「下がってはいない。先ほど測ったからわかる」
「いつ測っ」
 そこまで言って、右手で唇を押さえた。頬が紅潮する。
「何が目的だ?」
「目的?」
「こんなところに連れ込んで。蜜柑を投げつけた腹いせか?」
「まさか。俺はそんなに小さな人間じゃない」
「そのワリにはコソコソと女子寮を嗅ぎまわってたじゃないか。私の素行(そこう)を監視してただろう。全部知ってる。職制に指示して私が仕事でヘマとかしないか見張ってただろう?」
 向き直る。
「蜜柑投げつけられたくらいでネチネチ報復だなんて、器のデカい人間のするような事じゃないな」
「能無しのクセに、口だけはよく回る」
 ベッドの脇に立ち、腕を組み、威圧的に見下ろす。
「休みたくても休めないなどとほざいていたから休ませてやってるんだ。人が親切にしてやってるのにその態度は何だ? ガキだろうが働いて金稼いでる身分だろ。少しは常識的に考えろよ。ここはアリガトウゴザイマシタの一言くらいは言うべきところだぜ」
「お前なんかにわかるもんかっ」
 右手を振り払う。
「休んだら給料減らされる。サボったなんて因縁つけられてあれこれ仕事は増やされる代わりに給料は誤魔化される。休めば他の子たちの負担が増える。みんなギリギリで働いてんのに、これ以上迷惑を掛けるワケにはいかない」
 そこまで言って、グッと唇を噛み締める。
「私を帰せ。仕事に、戻せ」
 押し黙り、下を向いて肩を震わせる。
 そこまで追い詰めるのは誰だ?
 思わず肩を抱きそうになり、寸でのところで思いとどまる。
 俺は、何をしてるんだ?
 宙にぶらさげたような己の掌を見つめながら、栄一郎は無意識に口を開いていた。
「休めよ」
「なんでそんな事言うんだ。お前には関係ないだろう。アタシみたいな女工一人がどうなったところでアンタになんて関係ないじゃないか。倒れたって、死んだって、所詮お前らには大した問題じゃないんだ」
 身体が硬直し、棺に入らなかった遺体。ごめんねと謝りながらその足を折らなくてはならなかったのはなぜなのか。そこまで追い詰めたのは、いったい誰なんだ?
「帰せ。帰らせろ」
「駄目だ。それは許さない」
「命令か」
 嘲るような視線を向けられ、胸の内が熱くなるのを感じた。
「命令だ。だが、それだけじゃない」
「じゃあ何だ? 報復か? 嫌がらせか? アタシを辞めさせたくてこんな事を」
「お前を死なせたくはない」
「は?」
 狭い寮の一室で、ひっそりと仲間の手によって棺に納められていく遺体のように、なってもらいたくはなかった。なぜか? それは。
 思わぬ相手の言葉に絶句する早苗。無防備になった一瞬を突いて、栄一郎はその形のよい額に唇を当てた。
 何が起こったのかワケがわからず呆然とする。
「何を」
 目を丸くして己の額に手を当てる姿が愛おしい。
「寝ろ。悪いようにはしない」
 それだけを言うと一方的に背を向けて部屋を出てしまった。
 俺は、何をしているんだ。
 庭に出た。月はいつの間にか見えなくなっていた。焦土から復興し始めたばかりの街は、夜になればまだ暗い。それにここは丘の上。見上げれば、空には満天の星。星座などには疎い栄一郎にでもわかる。あれは夏の大三角形。三つの星が、我こそは一番と主張するかのように瞬いている。
 俺は何をしているんだ?
 自問しながら、だがどこかで満たされるような幸福をも感じていた。そんな自分から、もはや目を背けることなどできずにいた。
 彼女には嘘がない。彼女には、嘘がつけない。
 あの瞳に射抜かれてしまえば、嘘など一発で見破られてしまう。
 初めて出会ったあの電灯の下で、栄一郎は、己の弱さを見抜かれたような気がした。それが悔しくて、なんとか反撃してやろうと試みた。
 それが、このザマか。
 一週間という期間を五日に短縮して、早苗は寮へと戻っていった。栄一郎は、夜な夜な女子寮を覗き見する事はしなくなった。その代わりに、昼間に工場内をウロつく事が多くなった。用も無いのに工場を歩きまわり、職制やら工員やらを緊張させた。ウダるような暑さの中、誰が好きこのんで工場内などを歩き回るのだろう。怪訝そうな視線を向けてくる女工の間をブラブラと歩き、額の汗を拭いながら、それでも、栄一郎以上に汗をかき、滴り落ちるそれもそのままに織機の間を走り回る早苗の姿を垣間見ることができると、なぜだか心が軽くなった。同時に、工場の仕事の過酷さも目にする事となった。意味もなくフラリと食堂を覗いてみては、その食事の質素さに言葉を無くした。
 あの雑炊の方が、よっぽど贅沢だ。
 だが、それを誰かに訴えようとはしなかった。父などに言ったところで自分の意見など聞いてはくれないだろうし、そもそもどうして自分が女工などのために行動なんて起こさなければならないのか。
 労働者と管理者は身分が違う。
 そんな考えを摺り込まれた職制や会社の役員などもきっと耳は貸さないだろう。栄一郎だって、別に女工の労働条件を改善してやろうと思っているわけではない。
 世間では労働組合などといったものが結成されはじめ、会社を相手に座り込みやらストライキなどといった不届きな行動を起こす輩も出始めていた。
 雇ってやって、金まで与えてやってるのに賃上げ要求だと? 労働者の身分で生意気な。
 そんな考えが栄一郎の中から消えたワケではない。
 ただ彼は、気になるのだ。あのふっくらとした唇を噛み締め、故郷から遠く離れたこの地で家族を支えるために必死に働く小さな身体の少女の事が、気になって気になって仕方がないのだ。
「名古屋?」
 神社に呼び出された早苗は、キョトンと目を丸くした。季節は秋に移っていた。栄一郎と木崎の根回しで、彼女はその後も解雇される事はなく働き続けている。
「あぁ、今度の休み。どうせ暇だろ?」
「暇、だけど」
「何だよ? 何かあんのかよ?」
「いや、別に無いけど」
「じゃあ、何だよ?」
 歯切れの悪い相手に、栄一郎はイライラと急かす。
「いや、なんでアンタがアタシを名古屋になんて連れてってくれるのかなと」
 またどこかにでも監禁、いや軟禁、いや連れ込まれて、今度こそ会社を辞めさせられるのだろうか。
 身構える相手に、栄一郎は嘆息する。
「別に、単なる暇つぶしだよ。この間試験が終わって一服したいと思ってたんだ」
「だからって、何でアタシを?」
「一人じゃつまらん」
「じゃあ、学校の友達でも誘えばいいんじゃない? 大学とかの」
「休みの日にまで学校の奴らなんかと顔なんて合わせたくねぇよ」
「だったら、でも」
「あぁ、ったく、ウザってぇなぁっ!」







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